東京五輪パラリンピック開催まで100日を切った。新型コロナウイルスとの対策等、常に厳しい判断を迫られるオリンピックパラリンピック組織委員会・カヌースポーツマネージャーの古谷利彦。後編は生い立ちについて。
――古谷さんは、いつからカヌーを始めたのですか?
古谷:カヌーは大学からです。当時「水に親しむ」という憧れがありました。母校の同志社大学が関西で琵琶湖の近く。ただ入部したら体育会系で年間100日合宿でしたけど(苦笑)。
同志社大学はインカレで2位になるなど強豪チーム。私個人の成績は芳しくありませんでしたが、いろいろなノウハウを学びました。そんなに大した選手ではありませんでしたが、「人を教えたい」と思った。今考えると身の程知らずな話ですね(笑)それで教えたら、強い選手が生まれてくれた感じです。
――どのような経緯でカヌーの指導者になられたのでしょうか。
古谷:私は社会科の教員。地元の石川県に教員として赴任したのが昭和61年。その5年後、石川国体が開催されました。その石川国体のために、カヌー部を作ってもらい指導し始めました。
地元の石川県小松市には木場潟カヌー競技場という素晴らしい場所があります。県や市等にサポートを頂き、私が指導した生徒から強い選手が何人か生まれました。
ロンドン五輪に出場し、東京五輪出場も内定している松下選手。平成6年くらいに高校2年で日本代表、全日本ランキング2位、アジア大会に出場した選手もいました。そういうこともあり日本カヌー連盟の選手強化を担当することになりました。
そして1995年に山梨県で世界ジュニア選手権があり、日本人で国際審判を養成することになり「国際審判をやらないか」と話をいただきました。若いし新参者でしたが、そこで国際カヌー連盟の方にも認めていただき、仕事をする機会が増えました。2002年から世界カヌー連盟のカヌースプリントのメンバーになりました。
あの頃、世界カヌー連盟からアジアに外国人のコーチが派遣されました。ハンガリー人のチャバ・サントさん。彼と一緒に過ごすことで、ハンガリー流の強化方法や練習メニュー等、学ぶことができたのが経験として大きいと思います。