拓大紅陵・小枝守監督、法政大学・山中正竹監督、そしてシダックス・野村克也監督と数々の名将から直接指導を受けた杉本氏。会社員となった今でも、その頃の教えが役に立っているという。今回はシダックス時代、野村監督や髙橋一三氏、吉井憲治氏との出会いについて。
――野村さんが監督に就任した2年目、2003年にシダックスは都市対抗野球で準優勝しましたね。この時期、「杉本さんのターニングポイント」ということですが、具体的にはどのような影響を受けましたか?
杉本:髙橋一三さんに指導を受けフォームを改良し、自分の思うようなピッチングができるようになったのが2001年。その翌年、野村さんに出会ったので絶妙なタイミングだったと思います。
細かい話をすると、当時選手と兼任で投手コーチをしていた吉井憲治さんがいました。この方は代表選手に選ばれたこともあり、古田敦也さんともバッテリーを組んだこともあります。
元々、西濃運輸にいて、その後シダックスに移籍しました。この方は冗談抜きで「喋りながら投げる人」です(笑)。僕がシダックスに来たときは、「抑え投手」で活躍していました。
メンタルがメチャクチャ強い方です。今までプロ野球を通じても見たことがない。千葉ロッテで活躍した「ジョニー黒木」さんって、当時良く吠えたイメージあると思いますが、その元になったのが吉井さんです。
西濃運輸在籍時に、都市対抗野球大会の補強選手として、吉井さんが新王子製紙春日井に招聘されました。当時、新王子製紙春日井に黒木さんが在籍していて、吉井さんのピッチングに影響を受けたんです。それで黒木さんが吠えるようになりました。
僕も初めて吉井さんを見た時、「えっ…」と思いました。当時、社会人野球は金属バットで、打者有利の時代でした。詰まらせて打ち取ったように思えても、相手が強打者の場合、ホームランになってしまう…本当にピッチャーとして自信もなくしメンタルもやられてしまいました(苦笑)。
吉井さんは投げながら、「オラッ変化球じゃ、打ってみろ!」とか「この直球打てるか!」というのを言っちゃうんですよ(笑)。はじめは僕も「恥ずかしいなぁ」と思っていましたが、中継ぎや抑えってピンチの場面で出ることが多い。一点取られたら負けるケースもあります。
常にスイッチが入っている状態を維持しなければいけない。ブルペンでも吉井さんは「うりゃー」「おりゃー負けるか!」と気持ちを高めているんです。それを間近に見ることで、気持ちの作り方が大切であることを理解しました。
僕は吉井さんと同じサイドスローで、チームから中継ぎや抑えを期待されていました。とにかく吉井さんの声を荒げるというのは、通常では耐えきれない精神状態を維持するため、「負けないよう」に気持ちを押し出す声だと分かりました。
もちろん、そっくりそのまま吉井さんの真似をすることはできないけど、自分なりに吸収しました。ピッチャーとしてフォームと気持ちの作り方を学び、野村監督に出会ったので、僕の投手人生の中では最高の流れでしたね。
野村監督の考え方、「ピッチャーが絶対的に有利だ。打者は3割打てばいい。残りの7割はバッターを抑えられるんだから。なんで気負う必要があるんだ?」「物事を整理した上でマウンドに立ちなさい」「アウトカウントの数によって、『どんな指示を監督が出すのか?』というのをキャッチャーだけでなくピッチャーも一緒に考えなさい」など、とにかく野球に関することを色々教えていただきました。そして「野球」というのが見え始めました。