【野球 杉本忠】甲子園準優勝・都市対抗野球準優勝ピッチャー、次世代に繋げたい想い(1)

――やはり甲子園のマウンドは緊張しましたか?

杉本:拓大紅陵は千葉県では名前が知られていますが、関東エリアで見ると桐蔭学園や帝京など強豪校は沢山ありました。

当時の桐蔭学園には副島孔太、一つ下に高橋由伸がいました。一つ上には西武で活躍した高木大成さん。その流れで桐蔭は強かったですね。甲子園開会式の入場時って、並んでいる時に沢山の関係者がきます。

全国でも有名だった神奈川代表の桐蔭と東東京代表の帝京に挟まれて舞い上がっていた記憶があります。ですから僕たち拓大紅陵はダークホース中のダークホースとして甲子園に出場しているので、そこまでプレッシャーは感じませんでした。

でも、甲子園の決勝は地鳴りがしました。勝ち上がっていくとメディアも注目してくれるので、普通の高校生が経験しないことを経験できたのは大きかったですね。

出場していない人からすると「ちょっと天狗になっているんじゃないの?」とかも言われましたね。ただ僕は甲子園では、結果を出していないので良い思い出もないですし、天狗にもなれなかったですね(笑)

唯一思い出は、その時の拓大紅陵は4人のピッチャーで勝ち上がって行きました。

それも一人一人がタイプの違うビッチャー。僕が右のオーバースロー、エース冨樫富夫はサイドスロー、左の多田昌弘がいて、アンダースローの紺野恵治。当時としてはめずらしい投手複数制で、4試合で異なる4人が勝ち投手となりました。多分、甲子園史上初めてのことだったと思います。

今の高校野球はエース1人で勝ち上がっていくのが主流になっています。ただ、これから投球制限が設けられる。高校野球でも理想なのが「豊富な投手陣」になると思います。大学野球も社会人野球も、ましてやプロ野球なんて、長いシーズンをエース中心に何人かの投手で回して行きます。

これは持論なのですが、高校時代にエース1人で投げ抜くと、「見えない疲労」が溜まります。つまり若い時の連投による肩肘への負荷が、何年後か故障につながる要因になるケースがある。

本当は試合後、毎回疲労した箇所のアフターケアをしたり、継続的に筋力強化をすれば投手人生は長くなります。しかし若い時は無理が効いてしまうし、勝ちたい気持ちが先行してしまうんです。

疲労や痛みを抱えたままにしておくと、長く野球をやる上で蓄積されます。そういった意味では、小枝監督の指示の元、各投手が適度に休息を入れる「甲子園を投手4人で勝ち上がっていく」ということが大きな財産になっていますね。

――杉本さんは、高校を卒業したあと、プロには行かなかったのですか?

杉本:「プロに行きたい」というのは小さい頃からの夢でした。ただ自分から「僕プロに行きたいです」というタイプの人間ではなく、そういう流れがあればいいなぁ、と思っていました。甲子園では結果を出すことが出来なかったので、改めて大学で頑張ろうと。そして法政大学の野球部の監督から話を頂き、進学しました。
<(2)に続く>

<プロフィール>
杉本忠:1975年生まれ千葉県出身。父と兄の影響で小学生から野球を始める。その後、拓大紅陵に進学。高校3年で甲子園に出場し準優勝。大学卒業後、ヨークベニマルで活躍。だが野球部廃部に伴い、シダックスに移籍。野村克也氏より指導を受ける。現在、袖ヶ浦シニア等でコーチとして後進の育成に携わる。

取材・文/大楽聡詞

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