プロレスリングWAVE所属。デビューして28年、様々なプロレス団体で活躍する宮崎有妃。得意のハードコアだけではなくコミカルな試合も対応し会場にいる全ての観客を笑顔にする。だが彼女はレスラーなら誰もが求めるベルトへの執着がない。タイトルという記録ではなく、観客の記憶に「宮崎有妃」を刻み込む。その彼女に生い立ちからデビュー・海外生活・NEO時代・引退・現役復帰、そして今後の夢を聞いた(全6回)
ライオネス飛鳥からの連絡。そしてプロレス復帰
――宮崎選手は1998年に現役復帰しました。それまでの約2年間は何をしていたのですか?
宮崎:実家の愛知県に戻らず、友達の家を転々としながらバイトしていました。プロレスとは全く関係のない仕事です。
ある時、愛知の友達から「ある人に電話してほしい」と連絡がありました。その方はプロレスの興行主で「ライオネス飛鳥が宮崎さんに会いたい」と。
プロレスから離れているとはいえ、業界の大先輩を無視できません(苦笑)。
それで飛鳥さんにお会いして話を伺うと「JDスター女子プロレス(以下 JD)で『裁恐軍(さいきょうぐん)』として戦っている。一緒にやらないか?」と誘われました。
裁恐軍は飛鳥さんとドレイク森松さん、ザ・ブラディーさん、ファング鈴木さんがいるユニット。断ることができずに私は流されるまま加入。基本からトレーニングをして鍛え直し再デビューしました。
――1996年JWPを離れた時の「もう2度とプロレスには戻らない」という気持ちは?
宮崎:元々プロレスを嫌いで辞めたわけではなく、人間関係が嫌で飛び出した。だから「JDなら私を知っている選手がいないので1からできる」と考えました。
――2年間休んでいてリング復帰するまで、どのくらいの期間がかかるのですか?
宮崎:当時私は18歳。受け身も身体に染みついていた。復帰までの詳しい期間は忘れたけど半年以内だった気がします。
――リングネームが「エチセラ」でしたね。
宮崎:再デビュー前にリングネームを決めることになりました。「どんな名前にしよう。思いつかないな…」と周りの(知り合いの?)メキシコ人に相談したら「魔術師」という意味の「エチセラ」になりました。そんなに深く考えてなかったですね(苦笑)。