アテネオリンピック200m個人メドレー6位入賞「森隆弘」。最近では誰もがYouTuberとして自分の得意分野をネット上で公開しているが、森さんは8年ほど前から「森隆弘塾」という、水泳に特化したチャンネルを開設。動画の数は約800本、総再生回数1800万を超えている。また都内にサロンも開設。ビジネスマンとして活躍する森さんに話を伺った。
――2004年水泳日本代表としてアテネオリンピックに出場、五輪ではアジア人として初めて6位入賞でした。周りの反応はいかがでしたか?
森隆弘(以下、森):この大会では北島康介が平泳ぎで100,200mの金メダルを獲得したこともあり、水泳が注目されました。入賞の尺度って一般人が分かるかどうかだと思うんですよ。入賞を評価してくれるのは、同じ水泳界の方々。水泳教室やイベント等で周りから求められた時は「6位入賞」という事を言いますが、周りの反応が大きく変化したことはないですね。
――90年代、世界的に日本人水泳選手は活躍してなかったのに、2000年代に入って活躍し出したキッカケは何でしょうか?
森:それまで、テレビで大会の模様はNHKが放送していました。それが2001年福岡で行われた世界水泳からテレビ朝日に変わりました。テーマ曲がB’z「ultra soul」になり、朝の情報番組で水泳が取り上げられ露出度が一気に増えましたね。
会場に足を運んでくれるお客さんの数も多くなりました。最初はイアンソープが注目されましたが、日本人にも声援を送ってくれるようになり、日本の水泳界が変わった瞬間です。
――森さんは一度引退されて、2006年改めて復帰されました。これはどのような経緯があったのですか?
森:2004年のアテネオリンピックで引退して、2005年4月から1年間母校の日本大学豊山高等学校で講師をしていました。そこで生徒たちに僕なりの方法を伝えたら、飛躍的に泳ぎが早くなりインターハイでメダルを獲得したり、全く目立たなかった選手が入賞ラインに絡んだりしました。生徒に指導し、水泳を客観的に捉えることで見えてきたものがあったんです。
そんな時、長崎の西日本スポーツアカデミーから「長崎国体の強化選手として契約したい」と話がありました。実はアテネオリンピックが終わった時、燃え尽きた感がなくて、まだやりたかったんです。ですからスポーツアカデミーの方に「北京オリンピックを目指したい」と気持ちを伝え、契約しました。
――2006年の長崎国体では200m個人メドレー大会新記録で優勝。しかし北京五輪は惜しくも出場を逃しました。引退された後、スポーツアカデミーで水泳教室を始めたのですか?
森:はい。スポーツアカデミーでは企画から立ち上げ、イベントを各店舗で行いました。僕は東京の本社勤務、各店舗の方々には集客を担当してもらいました。
この時期、僕のもとに他のスポーツクラブからも「水泳教室をおこなって欲しい」と依頼が多数届きました。ただ同業なので断るざるを得ない。僕は断るのが苦手なんですよ(笑)。そこで「水泳を広めたい」という想いもあって2011年に独立しました。