1974年6月13日の東京体育館大会でヘーシンクvs ゴリラ・モンスーンの初の柔道ジャケットマッチ(5分3ラウンド3本勝負)が実現する。モンスーンはプロレス入りする前は全米大学選手権を制したレスリングの強豪だった。通常のプロレスルールに加えて、20秒の押さえ込み、10カウントKOが加わったもので、結果は2‐1でヘーシンクが勝利するも凡戦に終わった。
そこで馬場が白羽の矢を立てたのが、ドン・レオ・ジョナサン。彼には柔道黒帯という隠れた経歴があった。こうして1974年11月5日大田区体育館大会でヘーシンクとジョナサンの柔道ジャケットマッチが実現することになった。
ジョナサンは猟で仕留めた300㎏もある大鹿を担いで山を降りたことがあるという驚異の怪力と、ヘッドスプリングを軽々とこなす無類の身体能力を誇り、「ルー・テーズを超える」と評される実力を持つ天才レスラー。
198㎝、140㎏のヘーシンクと196㎝、140㎏のジョナサンによる巨漢同士の柔道ジャケットマッチは、ジョナサンはパンチやキックを敢えて使わず、柔道でヘーシンクに挑み、それにヘーシンクが応じる、緊張感のあふれる好勝負となった。
1ラウンドはともに投げ合うも5分時間切れ。2ラウンドにヘーシンクが東京オリンピックで神永から勝利したケサ固めで押さえ込み一本を先取する。
3ラウンドになるとジョナサンが一本背負い、ハイジャックバックブリーカーを決めて、スタミナ切れを起こしていたヘーシンクを追い込む。だが3ラウンドは時間切れで終わり、1‐0でヘーシンクが勝利した。
試合後、ヘーシンクは「オリンピックや世界選手権で倒したすべての対戦相手よりも強かった」とジョナサンを讃えた。
この試合をセコンドとして見届けていた元全日本プロレスのマティ鈴木はヘーシンクvs ジョナサンについて次のようにコメントしている。
「あれは素晴らしい試合でしたよ。アメリカで何度もジャケットマッチを見てるし、私自身もオクラホマ得で何回かやらされましたが、レベルが違う(笑)。エプロンから見ていて、ヘーシンクは息が上がるのが早かったですね。ケサ固めでジョナサンから一本を取りましたけど、柔道の畳よりも(プロレスの)マットは柔らかいので、押さえ込みに何倍もエネルギーを使う感じでしたね。ジョナサンのスタミナは凄いですからね。控室に戻ったあと、ヘーシンクは自信を失くしたような表情でしたよ」
(『日本プロレス事件史26』ベースボール・マガジン社)
ヘーシンクvs ジョナサンは好勝負となったが、1975年1月25日のマスクド・ハリケーンとの柔道ジャケットマッチが大凡戦となり、この格闘技路線は凍結している。
ヘーシンクは1978年2月を最後に日本テレビとの契約が切れ、プロレス界から姿を消した。2010年8月27日、故郷のユトレヒトの病院にて逝去。享年76歳。彼にとってプロレスは思い出したくない黒歴史かもしれない。だが、柔道からプロレスに転向し、苦悩しながらも闘い続けたその雄姿はファンの心にいつまでも刻まれている。
ジャスト日本
プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にてひとり語りイベント「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。
ジャスト日本 Twitter
著書
『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』(ごきげんビジネス出版/電子書籍)
『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』(ごきげんビジネス出版/電子書籍)
『俺達のプロレスヒストリー~団体の歴史編~』(スターアップ出版/電子書籍)
『インディペンデント・ブルース』(彩図社/単行本)