――2007年頃には、テレビ埼玉で「マッスル牧場classic」を放送してましたよね。アントーニオ本多選手と男色ディーノ選手が人の家に泊めてもらって、そこでプロレスするとか…斬新な番組でした。
坂井:当時、どうしても地上波でレギュラー番組を持ちたいっていうのがまずあって、しかもテレビ埼玉の深夜枠から世に出て行った人たちがたくさんいたので、自分たちもその枠を買ってやってしまおうっていう。お金は後から番組をDVDにして販売して、それでもお金が足りなかったらまた興行をやって補填すればいいじゃないかと考えていました。今、思うとめちゃめちゃ気合い入っていましたよね。
――1回目の放送は、25分番組なのに8分くらいでエンドロールが流れて、「どうすれば残りの時間を埋められるか」というのを今林さんと坂井選手で悩むという。僕は衝撃を受けました(笑)。
坂井:そんなことしていましたか……(笑)。あの時は番組の構成も自分で書きつつ、出る側の演者もしつつ、今もほとんど変わらない生活ですけどね。
――その後、2010年に引退されましたよね。これは新潟の実家・坂井精機株式会社を継ぐためだったのですか?
坂井:自分の中では10年でだいぶやり切った感がありました。レスラーや裏方としての目標を達成できたというか。よくあることですよね、10年くらい東京で丁稚奉公をやって、あとは地元に帰って実家の仕事を継ぐっていうのは。
――そのあと、2012年に地元新潟プロレスに参戦されました。これはどういったキッカケがあったのですか?
坂井:「日本武道館で興行を行うこと」が僕の夢のひとつだったんですが、2012年8月にDDTが日本武道館で興行を行うことになり「1日だけ復帰しないか?」と高木大社長から打診がありました。
同じ時期に「新潟プロレス」というご当地プロレス団体が近所に出来ました。そこのリングを借りて武道館に向けて練習をさせてもらったんです。そして8月に1日だけの限定復帰が終わりました。
当時、新潟プロレスは新潟在住の選手が3人くらいしかいなくて、試合のたびに東京から選手を借りないと成り立たない状態でした。地元のお祭りで試合を行うにもタッグマッチが組めなかったんです。そこで有料の興行は難しいけど、地元のお祭りや老人ホームで行う慰問のプロレスなら出場してもいいかなと思いました。
で、偉大な覆面レスラーであるスーパー・ストロング・マシンさんと、新潟名物の笹団子を掛け合わせたキャラクターを考えて、マスクとコスチュームを作って、月に一回くらい「スーパー・ササダンゴ・マシン」としてこっそりとプロレスをしていました。