レスラー以上にアイデアマンとして、プロレス業界では名を轟かせるマッスル坂井。今年、2.5次元ミュージカルを超えた“2.9次元ミュージカル”を「まっする(=ひらがなまっする)」で開催。プロレスファンに衝撃を与えた。その坂井選手は今年6月、実家である坂井精機株式会社の代表取締役社長に就任。1ヶ月に何度も新潟と東京を行き来する。レスラー・経営者・タレント・演出家等、複数の顔を持つ坂井選手。前編はプロレス業界の常識を覆そうと奮闘する坂井選手の生い立ちに迫る。
――元々はプロレスラーではなく映画作りをしたくて上京したと伺いました。
マッスル坂井(以下、坂井):諸説あるんですけど(笑)自分はレスラーになれるとは思わなかったですね。当初DDTには映像制作のスタッフとして入っていただけですから。
――子供の頃から「もの作り」が好きで、一時期漫画家も目指していたとか。
坂井:漫画家!……たしかに、その可能性を模索していたこともありますね。子供の頃、プロレスはほとんど見ていなかったんですけど「キン肉マン」をとにかく読んでいまして。みんながリアルなプロレスを見ていた時に、僕はキン肉マンを見ていた。極端にキン肉マンが好きだったんですね。どっちかといえば、そっちの方が現実だと思っていました(笑)。
――ということは、「キン肉マン消しゴム(=キン消し)」で遊んでいたんですか?
坂井:もちろんです。小学生の時は、毎日お風呂の中でキン消しで「5 vs 5の勝ち抜き戦」をして遊んでいました。そして色々なお話を作っていました。毎試合違うメンバーで、いろいろな新必殺技が出たり、チームの裏切り者が現れたり、チームの大将同士が実は生き別れになった兄弟だったり。毎晩1時間以上の長風呂で親に怒られていましたけど、そういうのが今の仕事に繋がっているのかもしれないですね。
――上京されて、どういう経緯でプロレスラーになったんですか?
坂井:最初は大学の映画サークルに入りました。プロレスを将来の仕事にするなんて考えてもなかったです。
――アニマル浜口ジムに通っていたと伺いました。
坂井:僕には意外と運動好きな一面もありまして、大学3年の時にどこかスポーツジムに入会したくて探していたら、プロレスラーを多く輩出しているところが浅草にあるらしいぞと。どうせジムに入るならハードコアなところに行ってやろうと。全然プロレスラーを目指していたわけでは無いんですが、見学に行ったその日に、アニマル浜口会長から「君は大森隆男に似てるな、よし全日本プロレスを目指そう」と言われて、そのままプロレスラーを目指す人たちと一緒に一年間練習していました。
その後、大学のサークル「シネマ研究会」の先輩の紹介で、DDTに映像のお手伝いで関わりました。あの頃DDTは今みたいに大きな団体ではありませんでした。100人もいない会場でやってましたね。当時からプロレスの仕事だけではなくて、音楽のライブ撮影もしたし、お笑いのイベントのお手伝いやVシネマの助監督もしましたね。
ある時、鳥肌実さんのライブに行ったら、結成したばかりの氣志團がいたりとか…DDTもいろいろな現場の一つとして携わっていましたが、気がついたら巻き込まれていました(笑)。今でいうと、動画編集できる人が色々な人のYouTubeチャンネルを手伝う感覚に近いかもしれません。
当時は自分たちで撮影して、自分たちで編集して、自分たちで番組にして、自分たちでサムライTVとかにも納品していましたね。20年前から自給自足でした。