元ロッテ・黒木知宏 “魂のピッチング”の原点とエースの自覚「チームのために身を粉に、骨が砕けても投げ切る」

■2000年、「野球をやりながらの苦しみ」のしかかった重圧

そして翌00年、長年チームを支えてきた小宮山が横浜(現:DeNA)へ移籍。大黒柱として強い自覚を持って臨んだシーズンだった。

しかし、キャンプ中に肉離れを発症。なんとか開幕に間に合わせ、2年連続の開幕マウンドに立つも前半戦は本来の調子とはほど遠い状態に。一時は防御率が10点を超えるなど、初勝利が5月12日のオリックス戦と約1ヶ月半を要した。

「投げ続けているのに結果を出せなかったシーズン。チームを先頭で引っ張らないといけない立場でありながら、逆に足を引っ張っていました。野球をやりながらの苦しみがありましたね」

さらにこの年の夏はシドニー五輪が行われる年でもあった。黒木も前年から日本代表入りが決まっており、別の重圧とも戦っていた。

「このままではいけないと思いましたし、自分の調子が悪くても日の丸を背負わないといけない重みというのもありました」

2000年は悩み続けた年だった

辞退も考えたほど悩み続ける日々。しかし、その背中を思い切り押してくれた恩人がいた。

「『お前を待っている人たちがいる。だから挑戦しろ。辞退はダメだ。行け!』と言ってくれたのが山本功児監督でした。後ろから背中を押してくれたんです」

初のプロアマ合同で行われた五輪。準備期間も短い中、どのようにチームを1つにするかといった課題もあった。

そんな中、杉浦正則(日本生命)や飯塚智広(NTT東日本)らとコミュニケーションを重ねながら、自らムードメーカー役も買って出た。五輪では5試合に登板し1勝1敗で防御率3.00、投球回数は松坂大輔(西武)に次ぐ15回とここでもフル回転で日本を牽引した。

そしてシーズンでも序盤の不調から巻き返しを見せ、4年連続二桁勝利(10勝)をマークした。

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