喜田本人も吐露した通り、特に阪神の外野陣は当時12球団の中で最も充実したとも言えるメンバーで固められていた。
左翼には金本知憲、中堅は赤星憲広、右翼は主に濱中治・桧山進次郎などが務め、ほぼ不動のメンバーであった。
濱中は03年途中、守備の際に右肩を脱臼し長期離脱となってしまうが、一塁を守っていた桧山が本職の外野へ回るなど4人全員がレギュラーとして活躍。チームを優勝へと導いた主役たちである。
球団史にも名を刻む選手たちがひしめく中、喜田はファームで己の実力を発揮し続けていた。
1年目に「第14回アジア競技大会野球」の日本代表の一員として6試合で3本塁打を記録するなどチームの銅メダル獲得に貢献。2年目にはフレッシュオールスターで3ラン本塁打を放ち優秀選手賞を受賞するなど大舞台で輝きを見せた。
初めて1軍に昇格したのは2年目(03年)で、チームの優勝決定後であった。この年のオフにメジャーへ挑戦した大塚晶則(現:晶文、中日1軍投手コーチ)から初安打を放つものの、この1打席のみだった。