高木:その時、屋台村プロレスの練習を見学させてもらい練習風景を見て、動機は不純ですが「俺、プロレスラーとしてイケるかも」と思ったんです。
体力には自信があったし、高校の柔道部でも戦績は悪くなかった。そこで屋台村プロレスでデビューさせて貰いました。
ただ、やるからにはキチンとやりたかったので、デビューする前4,5ヶ月は練習しました。
――屋台村プロレスのリングには、どのくらいの期間上がっていましたか?
高木:実質半年くらいですね。やっているうちに、もう少し高みを目指したくなって鶴見五郎さんのIWA格闘志塾に参加し、その後ジョージ高野さんと髙野俊二さんのPWCに移りました。
そのPWCが突然解散することになり路頭に迷い、野沢一茂(現:NOSAWA論外)、三上恭平(現:MIKAMI)と一緒に旗揚げしたのがDDTですね。
――最初は3名で、他の選手は他団体から借りてという感じですか?
高木:そうですね。他にも団体に参加して欲しかった選手がいましたけど「キャリアの若い人たちでやった方がいいんじゃないか」とアドバイスを受けて始まりました。
――最初は風当たりも強かったと聞きました。
高木:新日本も全日本も経験していない、デビュー2,3年のレスラーが集まって団体を立ち上げたので、それ自体は初めてだったと思います。だから業界の中で黙殺されていました(笑)
こっちはそれなりの苦労をして、他の団体と比較してもリング上でやっていることは変わりないと思っていたので「意地でも認めさせたい」という気持ち、まさにベンチャースピリッツですよね。それが1997年でした。
1999年に初めて聖地・後楽園ホールに進出しました。でも業界的には、まだまだでしたね。プロレス専門誌からは黙殺されていました。
「とにかく目を向けさせたい」という気持ちがあり、雑誌「ホットドッグ・プレス」に仕掛けました。当時は、雑誌「egg」やアムラーなどギャルブーム。
その頃、渋谷のクラブ「ATOM TOKYO」で定期興行を行っていて、会場に毎回コギャルを30人くらい招いていました。数ヶ月すると、それが話題になり雑誌「Hot Dog Press」で8ページの特集を組まれました。
「コギャルが観にくるプロレス団体」となり、TV「トゥナイト」を始め各媒体から取材を受けました。その後、専門誌に取り上げて貰えるようになりましたね。
<後編にこちらから>
<インフォメーション>
DDT最強レスラーを決めるシングルリーグ戦「D王 GRAND PRIX」が、いよいよ11/22後楽園ホールで開幕。昨年は外敵 田中将斗選手が優勝!今年の覇者は誰になるのか?
動画配信サービスWRESTLE UNIVERSEで、生配信が行われます。
詳しくは、DDTプロレスリング公式サイトをご覧ください。
また現在DDT EXTREME級王者の高木社長。防衛戦はすべて路上プロレスで行ない、なおかつYouTubeで配信。詳細は高木社長のTwitterをご確認下さい。
取材・文/大楽聡詞
写真提供/DDTプロレスリング