――東京はプロレスの興行も沢山行われるので、会場にかなり足を運ばれたと伺いました。
高木:大学生1年の時、新生UWFの旗揚げ戦が1988年5月に後楽園ホールであったんです。プレミアチケットで即完、でも若干数バルコニー席が出るというので、前日の夕方から24時間徹夜して並んで観戦しました。
そのことを学校で話したら、クラスの女の子が聞き耳を立てていて「言ってくれればチケット取ったのに」と。その子は高田延彦さんの後援会の会長のところでアルバイトをしていたんです。だからその後のUWFのチケットは、彼女に頼んで良い席で観戦していましたね。
それ以外にも初期FMWや全日本プロレスを観戦しましたね。上京してからはプロレス三昧で、「大学生活、ぶっちゃけ楽しいな〜」と思っていました(笑)。
――雑誌SPAのような生活ですね(笑)。
高木:本当にそんな日々でしたね(笑)。その頃はクラブイベントの企画等も行っていたので、派手な生活を送っていました。
――企画したイベントは、集客も多かったと伺いましたが、イベントとプロレスを一緒にしようと考えていましたか?
高木:その頃はなかったですね。あくまでイベントはイベント、プロレスはプロレスで分けて考えていました。
そして大学3,4年くらいになると周りの影響もあり「真面目に就職を考えなければならない」と思うようになりました。でも結局、就職せず計画留年しました(笑)。
前田日明さんの本「パワーオブドリーム」を読んだら「アメリカに行って成功したい」と書いてあり、それに感化され大学を留年し、アメリカ・ロサンジェルスにいる友達のところに行きました。ただ日本の方が楽しいことに気づいて1ヶ月で帰国しました。
――留年は、何年間しましたか?
高木:2年間です。ですから大学卒業するのに6年かかりました。
――アメリカから帰国して、すぐプロレスの世界に飛び込んだのですか?
高木:いや帰国してクラブ三昧の日々ですね。大学6年の時、そろそろ就職と向き合わないといけないと思っていたら、屋台村プロレスのリングアナの方から連絡があったんです。
その頃、知り合いが東京ウォーカーで働いていて、その雑誌に「夜遊び隊」というクラブ情報のコーナーにありました。時々、僕がそこにクラブ情報を提供していて、リングアナから「そのコーナーに屋台村プロレスの情報を載せられないか」という相談でしたね。
当時、飲食をしながらプロレス観戦できる、というところがなかったため、東京ウォーカーが、屋台村プロレスを2ページ特集で取り上げてくれたんです。記事の評判も上々でした。