――プロレスラーとしても、ファイターとしても和術慧舟會での日々は成長に繋がったんですね。

マンモス:相撲部屋で稽古をつけてもらったような感じだったんですよ。一からみんなにぶつかって、スパーリングさせてもらって…。あと和術慧舟會東京道場を任されていた守山竜介さんには本当にお世話になりまして、FNW倒産した時に「もしうちの道場に借金取りが来ても、佐々木選手には関係ないことだと突っぱねるから、気にせずに練習においでよ」と言ってくださって…。

――守山さん、格闘技界でも知られている人格者ですからね。

マンモス:FMW末期には資金調達のために消費者金融や闇金にも手を出していたわけですし、自分が練習に行くことで真面目に頑張っている人達に迷惑をかけてはいけないという葛藤がありました。でも本当は毎日和術慧舟會の練習に参加したかったですよ。それくらい楽しかったんです。

――ありがとうございます。マンモス選手の総合格闘技戦前にFMWがなくなってしまったのですが、FMWに憧れて入門して、プロレスラーとなったマンモス選手は団体の崩壊についてどのように感じましたか?

マンモス:とにかくハヤブサさんに対する気持ちしかなかったです。どんな形でもいいからハヤブサさんが還ってくる場所を作らないといけないと…。そればっかりでしたね。FMW崩壊からWMF旗揚げまで半年間、何かしらスポンサーをしてくれた方はいたのですが、満足な生活はできなかったんです。

でもハヤブサさんの居場所をつくらないといけない。自分だけのことを考えて、ハヤブサさんをほっとけないですよ。その頃に色々な団体から「うちに来てください」というオファーがあったのですが、断り続けてWMF旗揚げに参加しました。

――ここでお聞きしたいことがありまして、FMW崩壊後にひとつのプロモーションにまとまらずに、冬木弘道さんのWEW(冬木軍プロモーション)とミスター雁之助さんとハヤブサさんのWMFに分かれて旗揚げされたじゃないですか。マンモス選手は本来ならば冬木さん側と親交が深かったんですよね。

マンモス:それは言われましたね。WEWに行く金村さんにお世話になっていたので。でも僕はハヤブサさんとリングで対戦した最後の相手なんですよ。だからハヤブサさんが還ってくる場所を作って、いつかハヤブサさんが回復されて酒でも酌み交わるような時間ができたら…。その思いだけだったんです。だから冬木さん側には行きますとは言えなかったですね。

――FMW崩壊から三か月後の2002年5月16日に元社長の荒井昌一さんが自ら命を絶ってしまうという痛ましい訃報がありました。まず、荒井昌一さんはどのような方でしたか?

マンモス:荒井さんがFMW社長になった経緯はご存知ですか?

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