「アルベールビル五輪の時は、まだ何も分かっていなくて、プレッシャーや怖いものもなかった。僕にとっては、一番楽しいオリンピックでしたね。街の壁に貼ってある五輪のマークを見て、素直に感動したりとか…。この頃は、『好成績を出そう』とは思っていなかったんですが、それでも凄く自信はあった。『とりあえず飛ぶ』くらいの軽い気持ちで挑んだら、結果に繋がったという感じですね」。
だが、五輪やノーマルヒルで優勝を勝ち取った世界選手権(1993年2月・ファールン)での活躍などにより、感じるプレッシャーは日に日に増していったという。
「アルベールビル五輪の時には、まだ駆け出しだったので、メダルを意識することはありませんでした。結果へのプレッシャーを感じるようになってきたのは、翌年の世界選手権で優勝してからですね。その後は、『メダルを取りにいく』という想いは徐々に強くなり、気付かないうちにプレッシャーを感じていたように思います」。
そのプレッシャーが、皮肉にもリレハンメル五輪で顕わとなった。不調に終わった個人戦(ノーマルヒル55位、ラージヒル13位)の後に行われたジャンプ団体では、最終滑走者として登場した原田さん。金メダルをほぼ手中に収めたなかでで挑んだ2本目のジャンプでは、まさかの失速。逆転を許した日本は、2位で競技を終えた。
「結局、五輪を甘く見ていたんだと思います。直前のワールドカップでも、同じような失敗を繰り返していたんですけど、『このままいけば大丈夫かな?』という安易な考えも一方ではあって…。本来ならば、どう考えても我々が1位になるべきだったと思うんですが…。試合を終えた時は、『大変なことをしてしまった』という想いが強くて、なかなか心の整理がつかなかったですね」。
その後、さまざまな誹謗中傷も相次ぎ、「うまくいかないことが続いて気持ちの浮き沈みのある日々を過ごした」という原田さんだったが、その自信を取り戻したのは、周囲にいる人々の支えと、導き出した“ある答え”だったという。
「五輪での失敗を乗り越えるのは本当に大変でした。多くの人たちの助けがあってこそだったと思います。思い悩むこともありましたけど、いつまでも「悔しさ」を引きずるわけにはいきませんし、その先の人生もすぐにやってくる。これまでよりも良い成績を出し、『原田は強くなった』と言われるような選手を目指す。僕に出来ることはそれしかありませんでした」。