スキージャンプの西方仁也(リレハンメル五輪銀メダリスト)の知られざる長野五輪 映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』絶賛上映中

リレハンメルの団体戦を終えた後、「長野五輪で雪辱を果たす」ことを誓い合ったという面々。「原田選手や葛西選手の活躍が、世界を見据えるきっかけになった」という西方さんも、好成績を残す日本選手と切磋琢磨しながら、4年後に向けて順調な調整を続けていた。

「長野までの4年間では、ルールの変更などの影響で、不調やスランプも経験しましたが、五輪を直前に控えた1997年の夏あたりは、本当に調子が良かったんですよ。『イケるかな?』と、確かな手応えを掴んでいたのですが、その年の秋に腰を痛めてしまって…。結局、代表に選ばれることはありませんでした」。

中学生時代から共に競い合った原田さんも、「西方が子供の頃から地元の期待を背負っていたことも知っていた。なので、その悔しさは想像を超えるものがあったと思います」と語る“絶望”のなかで過ごす西方さんの元に届いたのは、テストジャンパーとしての大会参加のオファーだった。

「『トレーニングの代わりにやらないか?』と声をかけていただいて…。(出場を逃した五輪に参加する複雑な気持ちはありましたが、)五輪後には国内での試合も控えていたので、参加を決めました」。

1972年の札幌大会以来、26年ぶりに日本で開催された長野五輪は、これまでにない盛り上がりを見せた。個人ラージヒルでは、原田さんも逆転で銅メダルを獲得。個人戦での勢いそのままに、団体戦での4年越しの金メダル獲得に挑む原田さんの様子を、西方さんは複雑な感情で見つめていたという。

「普段通りのジャンプができれば、日本チームが金メダルを獲得することは分かりきっていました。でも、その一方では、『(原田さんが)飛びすぎて、自分が持っている銀メダルが霞んだら嫌だな』と言う想いもありました。さまざまなことを考えながら原田くんのジャンプを見ていたら、思った以上に失速してしまって…。その時は、『余計なことを思ったかな』と思いましたね(苦笑)」。

前が見えないほどの大雪のなかで、1本目の滑走をスタートさせた原田さんは、4年前と同じように失速。日本はメダル圏外の4位に沈んだ。その後、雪が強くなるにつれて競技は一時中断。1回目の順位が最終順位となる可能性があるなか、競技再開の行方は、テストジャンパーの滑走に委ねられることとなった。

「『条件は悪かったですけど、何とかしてあげたい』と思ったのは事実ですね。ジャンプ台の表面は凸凹しているのですが、たくさんの選手が滑り続けた方が、音やスピードを掴めますし、ベストなジャンプも飛びやすい。さまざまな選手がテストジャンパーチームにはいましたが、みんなが一丸となって取り組めたかなと思います」。

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