新日本プロレス・井上亘さんが歩むセカンドキャリア(中編)「メキシコではオカダ・カズチカ選手の使っていた部屋が私に回ってきました」

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2007年BOSJで準優勝、環境を変えるために単身メキシコへ

――2007年7月、BEST OF THE SUPER Jr.(=BOSJ)優勝決定戦でミラノコレクションA.T.さんに敗れメキシコに行きましたね。

井上:ミラノさんに公式リーグ戦で勝って、BOSJ優勝決定戦で敗れました。この年は「私がBOSJで優勝しなければ!」の気持ちを強く持ち続け臨んだので、それが実現できず空虚感を抱いていました。そこで状況を打破するために一度、環境を変えようと思いメキシコに行きました。

――2015年5月、内藤哲也選手もメキシコ遠征をキッカケに大ブレーク。メキシコには何があるのでしょうか?

井上:メキシコはプロレスだけではなく、危険と言われた地域での生活も刺激的でした。環境が変われば、その中で人も変わるのかもしれません。

――どこで練習していたのですか?

井上:私は闘龍門さんとアリナ・メヒコです。

――時期的にオカダカズチカ選手と被りましたか?

井上:ちょうど入れ替わりですね。たしかオカダ選手は2007年8月に新日本に移籍だったのかな??それで私が闘龍門さんを拠点にトレーニングをさせていただくときに、ちょうどオカダ選手の使っていた部屋が空いていました。

当時、大原(はじめ)さんから「この部屋を使ってください」と言っていただいたので、私が使わせていただきました。あの時の寮生活では、大原さん、花岡(大輔)さんやアミーゴ鈴木さんに大変お世話になりましたね。皆さん、とても親切でした。

――現役時代、井上さんは様々な技を考案。メキシコ生活の中で考えたものをありましたか?

井上:私は昔から技を考えるのが好きでした。“トライアングルランサー”という技を起点にして、「発展形のランサーをつくれないかなぁ」とよく考えていましたね。例えば、「相手にロープエスケープをさせないトライアングルランサーって出来ないかな」とか。

ほかにも「思いがけないタイミングからトライアングルランサーへ移行させるには?」とか。いつも頭のどこかでトライアングルランサーにいろいろなバリエーションを持たせることを考えていたので、メキシコの多種多様のジャベから私の脳に新鮮な刺激をいただけたと思います。

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