――伊藤選手の体の強さは最初から認められていたんですね。
伊藤:昔はレスラーが多すぎて競争が激しく、60キロ切ったら巡業に連れて行ってもらえないし、試合に負けたら次の試合には出してもらえなかったんです。私は60キロなかったけど、1回も体重測定されなかったので引っかからない。柔道を経験していて、すでに体ができているから許されたんでしょうね。
――獄門党とは戦いは大変でしたか。
伊藤:当時、獄門党はブル中野さん、井上京子さんがいて、そこに北斗晶さんが加入。ジャングルジャックもアジャ様、バイソン木村さんなど凄いレスラーばかり。私だけが日々揉まれていました。「控え室で泣いてもいいけど、よそでは泣くな」とか「やられたらやり返してから帰ってこい」なんて毎日のように言われました。
――その頃、CDデビューもされていますね。
伊藤:そうなんですよ(笑)。豊田真奈美さん、吉田万里子さん、玉田りえさん、府川由美さんと私の5人で”d-power”というユニット。「LEGEND OF GOLD」と「GET MY ENDLESS」の2曲出しました。
――フリーダムフォースというユニットもありました。
伊藤:豊田さんと長谷川、吉田と私の4人です。懐かしいですね。
――全女のWWWA世界シングル王座も獲得しています。
伊藤:ベルトは第51代と53代の2度獲りました。豊田真奈美さんに取られては私が取り返す、というのを繰り返しました。最後はモモ(中西百重)に負けて、中国に行かせてもらいました。
――中国に行ったのは何か理由があったんですか。
伊藤:あの頃、全女というかプロレスを辞めるつもりでした。 当時はWWWAのベルトは取られたら”引退”というイメージがあった。クラッシュギャルズの世代もそうですけど、赤いベルトってその世代で1人しか巻けない。
事実、同期の中で私しか巻いていないし、上の世代は井上京子さん、またその上は豊田真奈美さん、またまたその上はアジャ様しか巻いていません。”赤いベルトを失う時は世代が変わる”感覚でしたね。
私はモモに負けたことで「プロレスを辞めよう」と考えた時、会社から「中国の子たちにプロレスを教えるコーチとして中国に行ってくれ」と言われました。「辞めるのはいつでもできるから」と思い、とりあえず中国に行くことにしました。
<後編に続く>
取材・文/大楽聡詞