新日本プロレス・井上亘さんが歩むセカンドキャリア(前編)「最初の入門テストは棚橋弘至社長と一緒に受けて共に不合格でした」

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大学時代、持病が悪化し「健康のために」名門ジムに入会。愚直な青年は身体作りに魅了され新日本プロレスの門を叩いた。元新日本プロレス所属・井上亘。IWGPジュニアヘビー級王者としてBEST OF THE SUPER Jr.を制覇した井上はヘビー級に転向、G1 CLIMAXにも出場した。だが2013年に「頚椎椎間板ヘルニア」と「右変形性肩関節炎」が発症し長期欠場。2014年2月「中途半端な回復では復帰したくない」と引退を発表。現在は新日本プロレス広報宣伝部&興行事業部という肩書きを持ち、プロレスを多くの人に届けるために日夜奮闘している。今回、井上亘のキャリアを振り返ると共に、彼が力を入れている「TTGC(=The Third Generation Club)」について聞いた。

目次

小さい頃は持病を持つ虚弱体質。大学時代に絶望を味わう

――小さい頃はどんな子供でしたか?

井上:持病が喘息とアトピー性皮膚炎がありまして、しょっちゅう病院に通っている子供でした。それで体力作りの一環として小学生の時には野球と水泳、中学生では陸上をやっていました。でも喘息がひどくなって中学2年の途中で陸上を辞めてしまいました。

高校に入学してからは特に部活動はやりませんでした。それから大学3年で持病が悪化しまして、病院の先生に「入院するか、身体を鍛えたほうがいい」と言われ、「とうとうきたか!」と絶望を感じました。

――なぜ絶望を感じたのでしょうか?

井上:周りの友達が企業訪問の話をしている時期に私は持病が悪化してしまい、「俺の人生はどうなるのだろう」と。この時の私はこの病気を治すためにやっていたことも皮膚が快方に向かわない。

皮膚が赤紫色でただれたまま。症状の悪化で顔の3分の2をガーゼで覆うまでになったので、私はもう就職どころではないと。そう思うとなんか絶望でしたね。

――それで身体を鍛え直そうと?

井上:はい、「これはもう駄目だ!」と就職をあきらめられる状態だったので、入院するのではなくて、私は身体を鍛えて健康になろうと決めました。

――スポーツジムではなくて、有名なレスラーを多数生み出している「アニマル浜口ジム」でしたね。

井上:私はプロレスが大好きです。なので、私はプロレスラーが指導するところにちょっと怖いものみたさで通いたい気持ちがありました。それで「私の人生はこれからどうなるかわからないけど、いま自分が魅かれることをやろう」と思い、浜口ジムに見学しにいきました。

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